私と先輩は駅へ向かっている暗くなったコンクリートを歩いていった。
髪をなびかせているものは少し冷たくて、気持ちが良かった。
空にちりばめられている光はこの世の中を闇に染まるのを防いでいる。
静かだった。私たち以外何もないように感じた。

私と先輩は、この小さな世界で二人っきりになった。

このひと時が、私にはとても大事に思えて、このまま時が永遠になってしまえばいいのに……何度思ったのだろう。
しかし気が付けば、二人っきりの世界は消えてしまっていた。駅には会社帰りの人たちやらで賑わっていた。
運賃表を見上げている間、私は勇気を持って先輩の手を掴み、ぎゅっと握った。
先輩はそれに気付き、顔はこっちには向けなかったがぎゅっと握り返してくれた。私は運賃表から目を離した。
先輩は列車に乗る切符、私は入場券を買ってホームへと向かう。
ホームに着いて五分も経たないうちに電車がやってきた。
この間、手はずっと握り続けていた。
「もう、お別れなんですね」
「ああ、そうだな……」
少し強く手を握っていたからか、私の手は妙に汗ばんでいた。
先輩が乗った電車はしばらく止まっていた。快速列車との待ち合わせのためだ。
まだ時間はある。けれども、一分位の砂時計のようにとても早い勢いで流れているように感じられた。
ほんの数秒、沈黙が訪れる。聞こえるのは風の音と、快速列車が通過するというアナウンスだけ。
この間にも砂は落ちているというのに、先輩の手を握る事が出来たというのに、私の本当の口は開かなかった。
「あの、先輩……。風邪、引かないでくださいね」
この時において何を言っているのだろうと呆れた。
言葉に出さなければ、言葉に出さなければいけないのに。
私の脳裏に高校生活がよぎった。
「ああ……気をつけるよ」
「また……また、会えますよね?」
違う。似ているけど、本当に言いたいことはそれじゃない。
「え、ああ。夕凪……その時は――」
先輩が何かを言った時、快速列車がガタンガタンと大きな音を立てて先輩が乗る電車の後ろを通過する。
その時の先輩の表情は、とても真剣だった。
「今、何て……?」
何となしに先輩が何を言ったのか分かった気がした。でも、はっきりと聞こえたわけではないし、その言葉は喫茶店の時と同じように冗談なのかもしれなかった。
「へ……? あ、ああ。仕事では会えそうにないから、プライベートで会おうって」
先輩はその後すぐに苦い表情を浮かべた。
「待っています、私。その時までに……」
私の口から出た言葉ははっきりと聞こえなかった言葉ではなく、はっきりと聞こえた言葉に対しての返事だった。
馬鹿ーー!!と心の中で叫びながら、私の表情は今の先輩の表情と似ているのではないかと思った。
「その時までに……?」
「……石、上手く水面を切れるように練習します」
終わった。と思った。
結局高校時代から私は何一つ成長しないままなのだと呪いたくなった。
先輩はきょとんとした表情を浮かべた後、くすっと笑った。
「……了解。少なくとも五回以上は跳ねられるようにしておくこと。これは宿題です」
「判りました、先生」
私たちは笑った。
ホームからまもなく列車が発車するとアナウンスが流れる。
私は一歩、先輩から離れた。
何だか酷くこの一歩が大きく思えて、先輩が遠くに見えた。
「それじゃあな。今日は楽しかったよ」
「私も、本当に幸せでした。それと……」
「それと?」
「大切な思い出、忘れかけてた思い出を蘇らせてくれてありがとうございました」
「……いいってことよ」
「それじゃあ。また……」
「ああ……」
ピーと笛の音が聞こえた後に、列車のドアは私と先輩の間を遮った。
列車が静かに動き出す。段々と流れ出す風景、広がってゆく距離。私は先輩の姿を少しでも長く見ようと走り出した。
最初は先輩との距離は保ちつつあったが、段々と先輩の姿は遠くなってゆく。
もうちょっと運動しておけばよかった。そんな下らないこと真剣に考えながら、私は先輩に向けて手を振った。
先輩も手を振ったのだろうか……私には判らなかった。
私は列車が見えなくなるまで手を振り続けた。

駅を出ると、いつもの風景だった。
いつもの帰り道を通り、家へと向かう。
途中、手を握り締めた。手はまだ熱を持っていて、じんわりと湿っているように思えた。
家についた私は、手洗いやうがいもせずに暗い寝室へと向かった。
冷たいベッドにぼふっと倒れこむ。
しばらくそうしていると、なんだか目が熱くなって、頬に何か流れる感触がした。
流れるものは止まらなくて、私は枕を顔に当てた。
「うっ…ひっく…うっうっ………」



←back ‖ next→

Web作品 に戻る