私の家から、この海岸をしばらく歩いた先に喫茶店がある。『Chill Out』という名前を持つその店は、その名の通り落ち着いた雰囲気を持っている。店内は常にコーヒーの良い香りで満たされている。
私と先輩はその喫茶店に入った。
いつもこの散歩の帰りに、私はこの喫茶店に寄る。朝から開いていてお客さんも何人か入っている。
確か、先輩と一緒に喫茶店に入った時間が七時三十分。喫茶店に置かれているテレビには、朝のニュース番組が流れていた。
「やぁ、若菜ちゃん」
「おはようございます、マスター」
カウンターの側で動いている男性が私に挨拶をした。私も挨拶を返す。
店内には何人かお客さんがいたけれど、皆常連さんだった。何故か私はほっとしてしまう。
この雰囲気が私は好きだ。もう一つの家と言ってもいいのかもしれない。
「先輩、行きましょう」
私は先輩の腕をつかんで窓際のテーブル席へと向かう。
「いらっしゃい。今日はお客さんも一緒なんですね」
私と先輩が窓側の席に向かい合って座ると、一人の若い男性がテーブルに近づいてきた。
「うん、昔お世話になった先輩」
「あ、ああ。どうも。香川 翔です」
「初めまして。自分はここの喫茶店で働かせてもらっている鈴木 直哉です。どうかよろしくお願いします」
直哉さんはそう言って頭を下げると、水が入ったグラスをテーブルに置いた。
「あ、ああ。こちらこそ」
「若菜さんは、いつものでいいですか?」
「うん、いつもので。先輩はどうします?」
私はメニューリストを先輩に差し出す。朝なのでモーニングセット中心のメニューが書かれている。
「う〜ん……トーストセット。これで」
「かしこまりました」
そして直哉さんは用紙に注文内容を書き込んでカウンターへと向かった。
「……一瞬驚いた」
カウンターに聞こえないように小さな声で先輩は言った。
「え?」
「彼」
「ああ」
私はくすりと笑った。
「なんだよ……」
「ううん。そうだよなって」
直哉さんは金色に染めた短髪でピアスをしている。そして見た目がやや怖い。正直言ってこの喫茶店には合わない。
恐らく先輩は、彼の風貌を見た瞬間何らかの危機を抱いたのかもしれない。そしてその後の、あの外見とは似つかない丁寧な応答に驚いたとみた。
私は彼にどんな事情があったのかは判らないが、マスターが何も言わないから特に問題はないのだろう。あるいはそうならざるを得ない事情があったのかもしれない。
ここの常連さんも彼の風貌に最初は驚いたが、その丁寧な気配り等々がむしろ気に入ったらしく、「良い若者もいるもんだな!」と言う始末だ。やれやれ。
「そろそろ茶髪にしてもいいと思いますけどね」
私は直哉さんを見ながら、それでいて聞こえないように言った。
「全くだ」
先輩はくすりと笑った。
心の中で、先輩には失礼だと思いながらもこういう風に笑うんだ。と少し驚いた。
「ん? どうかした?」
「あ、いえ。なんでもないんです」
「そう? 何か顔についてるような目で見てたから」
「ほ、本当ですか?」
「う、そ」
「もーー……」
危ない所だった。とは言っても、先輩の冗談はどこまでが本気なのか判らないから、もしかしたら気付いていたのかもしれない。
「先輩、何でここに来たんですか?」
私は話をそらそうと、気になっていたことを切り出した。
先輩はスーツ姿だった。何故スーツ姿であの海岸にいたのか、石を投げていたのか。
「ん? 若菜にプロポーズしに」
「馬鹿な事、言わないでくださいよ」
「俺はいつでも真剣だよ」
私は先輩の瞳を見た。キリッとしたその瞳に吸い込まれそうな気がした。
「嘘……」
「う、そ」
「もー、本当に信じちゃったじゃないですか」
私は先輩の肩を軽くはたいた。むーと膨れながら、その膨れた何かを水で流し込む。
「はっはっは、本当は仕事で来たんだよ」
「仕事?」
「ああ。営業……引っ越して高校を卒業した後に事情があって就職してね。今は会社の営業部にいて、出張って事でここにきてるのさ」
そう言って先輩はカバンを見せた。スーツ姿というのもそういうことなら頷ける。
「そうだったんですか」
「ああ」



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